一昨日からwebには書かない出来事がふたつ続いた。書けないではなく、書かない、である。ひとつは人の不幸な出来事、ひとつは殺生の話。どちらにしろひと処に居を構え、そこで生きていくには避けて通れない日常の、ハレではなくケの部分だ。そうしたことなしに生きていくことは出来ないし、ただ忌み嫌い避けて通れば済むってもんでもない。


道化師は宮廷で唯一身分制度に縛られず、王侯貴族に耳の痛い讒言を奏上しても許される存在であった。でもそれは犬と同様に『王の持ち物』だからであり、身分外の身分、社会の正規構成員としては扱われない、心ある人間としては扱われないという悲哀と背中合わせの特権なんである。
障害を持つ人を道化として王のそばに置いていたのがその始まりであり、中世以前のヨーロッパでは「可哀相な人」を身分あるものが面倒をみるのは社会的義務であり、ステイタスシンボルでもあった。ケースバイケースだが彼らはあるいはその無邪気さから「神に近い存在」として畏敬の念を集める一方で、人を楽しませる笑い物としての対象にされていたし、キレイゴトでは済まされない諸々の、スケープゴートとしての役割も担っていた。
障害のない人間が道化を演じる場合、愚か者のふりをすることで、その者の言うことを真に受けてはいけないという見立てのもとに、建前と本音の本音の部分、光と影の影を担当するということになる。また、王のスパイとして城内の諜報活動も行っていた。やはり扱いはペットの犬や猿と同列で、なぐさみに殺されたりすることもあったらしい。道化のアクロバットは規範の破壊を表しているともいわれる。


いまだってまだ青いがもっと若かりし頃、消費活動に背を向けた生活を数年間していたことがある。不安定な社会情勢の中、不可抗力でそうせざるを得なかった部分はあるにせよ、自ら選んだ道であったのもまた否めない。田舎暮らしの知恵はサバイバルの知識。それはそれで楽しかった。しかし似たようなアウトローが増えればそれがひとつの勢力となって社会に組み込まれるだけだ。
社会の中枢に同世代が食い込みつつある。創造物を見ても真面目に下積みをしていた同世代が次々と活躍の場を得ている。その中に自分が入っていた可能性を考える。いくつかの不幸と幸運が重なった過去を変えることはできないし、過去に戻っていまを変えたい訳でもない。手元にあるのが自分に与えられた、もしくはこれまでに獲得したカードである。すべての人生を生きることは出来ない。穏当にいけば、生まれてから現時点までと同じくらいの時間をこの先も生きることになる。