読了:暗い旅(倉橋由美子)

暗い旅 (河出文庫)

暗い旅 (河出文庫)

恋人であり婚約者である“かれ”が突如謎の失踪を遂げた。“あなた”は失われた愛を求めて、東京から、鎌倉そして京都へと旅立つ。切ない過去の記憶と対峙しながら‥‥。壮大なるスケールの恋愛叙事詩として、文学史に燦然と輝く、倉橋由美子の初長編。「作者からあなたに」「あとがき」「作品ノート」収録。
◎解説=鹿島田真希

舞台は昭和三十年代後半である。大学院生のあなたは失踪したかれの姿を求めて、ふたりが出会った鎌倉、そして初めて夜をともにした京都を歩く。かれはもうこの世にはいないのかもしれない。不吉な予感を抱えた旅は、いつしかかれの不在を確かめるための通過儀礼のように思えてくる。
二人称で書かれた小説は、以前にも何度か読んだ覚えがあるが、実は上手く読めた験しがない。どうにも視点が定まらないのだ。しかし今回は違った。はじめのうちは語り手の視線によりそい、他者としてあなたの内面を観察する。一人称の曖昧さもなく、三人称での隔靴掻痒もない。姉がすぐ下の妹を見ているようなまなざしで、本人の回想では避けられてしまいそうな居心地の悪い無様なところも身内のような残酷さで容赦なく暴き立て、赤の他人の目線では見落とされてしまいがちな微妙で曖昧な気持ちのそよぎも逃さない。辿っていくうちに、あなたの内面へどんどん踏み込んでいってしまう。最後は読んでいるわたしなのか本の中のあなたなのか、境界が曖昧になっていた。
このあなたにしろ、『聖少女』の未紀にしろ『夢の浮橋』の桂子にしろ、倉橋作品の女性は現実離れした掛け値なしのお嬢さまが多い。生家が旧華族だとか大金持ちだという意味ではない。精神面が貴族的で高級なシニシズムに満ちている、言い換えれば強烈な選民思想に染まっているのだ。中流育ちの凡人としては反発する気持ちも起きてくるわけだが、実のところこれらの設定は現実の細々とした雑音を排除するためのファンタジー装置なのであろう。観念を純粋に追いかけるためには、生活の雑事に追われていてはいけない。SFが突き詰めた世界観を提示するように、剣と魔法の世界では物理法則を無視できるように、純文学は観念の精妙な御伽噺を描くのだ。
倉橋作品を初めて読んだのはたぶん小学校の高学年だった。市の図書館で何冊かボロボロになった本を借り出しては読み耽っていた。高校生になって多少自由になるお金が出来てから少しずつ文庫本を買い集めた。そのころ彼女の本は絶版が多く、新刊書店ではそう多くは置いていなかった気がする。それも大きくもない田舎の本屋だったからかもしれないが。ことばのひとつひとつがぴたりぴたりと胸に収まるのは、あとを追いながら育った馴染み深さからくるのだと思う。

かれとのあいだの奇妙な関係、セクスによる交りは停止されているが完全な了解のもとにそれぞれ他の異性とセクスの遊戯をおこなう自由を認めあっているという関係‥‥

むしろかれとあなたとは、兄と妹、あるいは姉と弟、同じ胎内で抱きあっていた双生の兄妹であるべきだったかもしれない‥‥

精神的なシャム双生児のようにくっつきあったあなたとかれの関係が、かれの無言の失踪によって一方的に破棄される。かれのかたちをしたかれのぶんだけの凹みを抱えたあなたは、東海道線に乗り京都へ向かう途中、きれぎれにかれとの会話やかれの振る舞いを思いだす。ぱらぱらとばら撒かれた断片から、あなたとかれが交わした契約とそれに至るまでのいきさつが浮かび上がる。ふたりの関係というのは、当のふたりにしか判らない。そうした約束、お互い納得したうえでの取り決めはふたりの数だけあるものだ。
読後、落ち着かなくなって出掛けたくなるという感想をどこかで読んだが、わたしの場合は逆だった。兄妹のように想っていたかれの不在、大砲があけた風穴のようにぽっかりとあいた口、それ自体が質量を持っているような暗い穴を抱えて身動きが取れなくなった。
そのままあとがきを読み、続けて解説を読み進める。

そして「あなた」は自分にとって、かれが自己の延長にすぎないこと、鏡に映った向こう側の人間であることを知り、涙を流す。

このことばが半透明の小さなトカゲのようにちょろりとすばやく穴に這入りこみ、底の暗がりでとぐろを巻いた。
そうか。
唐突になにもかもがばかばかしくなった。