読了:グレート・ギャッツビー(フィツジェラルド)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャッツビー、偉大なギャッツビー、華麗なるギャッツビーである。マンダムのギャッツビーの由来でもある。2006年に村上春樹氏の新訳が出ているが、私が持っているのは古い版で野崎孝氏のものである。古典といってもいいような翻訳物を買うときは、新訳が出ていてもなんとなく古い訳のほうを手にとってしまうのは何故だろう。些細なことからでもできるだけ時代の香気を感じたいからかな。
古典的な名作なので、いまさらネタバレということもないだろうが、一応隠しておこう。


主人公のニックは中西部の田舎町から、パッとした人生を求めてニューヨークへ出てくる。そこで借りた家の隣に建つ豪邸に住んでいたのがジェイ・ギャッツビーである。一方、ニックのまたいとこのデイズィは育ちもよく器量よしで、夫と四歳になる娘と暮らしている。その夫のトムはニックの大学時代の友人で、同じクラブに所属していた。そんな縁があって、最初はそれぞれべつべつに交流を持ったのだが、実はギャッツビーとデイズィは彼女が結婚する前の恋人同士だったんである。なんたる偶然。
ニューヨークから20マイルも離れたロングアイランドに双子のような島があって、そのうちのひとつが良家の金持ちしか住めない高級住宅街となっているウェストエッグ、金はあっても成り上がり者はもう一方のイーストエッグのほうへ住み分けている、という舞台設定だが、モデルとなる地域はあるものの架空の土地である。
凡庸な家柄の出のニックが借りた家はイーストエッグにあり、海峡を挟んでちょうど対岸のウェストエッグにトムとデイズィが住んでいるというのが象徴的だ。
トムは不遜な男で、家柄も体格もよく男らしく自信家で金持ち。絵に描いたようなブルジョワの厭なヤツで、もちろん愛人もいる。ニューヨークにこっそりアパートを借りて、人妻とダブル不倫中。もっともニューヨークに越してくるまえからトムの女遊びは派手で、妻のデイズィはそのことで泣き暮らしていた。
娘が生まれたときにデイズィが言った言葉が、

『ばかな子だったらいいな。女の子はばかなのが一番いいんだ、きれいなばかな子が』

余計な目端が利くと知りたくもないことまで判ってしまう。だから夫が不実だろうが何も気がつかないほどばかなほうが、本人は幸せだいうことだ。そういうデイズィは受身で儚げな美女タイプである。夫の浮気に涙を流しても、決して子どもを連れて家を飛び出したりはしない。
愛人のマートルは埃っぽい荒野でガソリンスタンドを経営している夫と暮らしていて、貧しいががっしりしてはっきりした物言いをする健康的な女である。鈍くさい夫を軽蔑している。見事に両極端な正妻と愛人である。トム、男らしいなー、悪い意味で。
さてそこでギャツビーはというと、礼儀正しく清潔そうなハンサムである。オックスフォードの卒業生だとか、人を殺したことがあるなとどいう噂がまことしやかに囁かれるばかりで、だれもその正体をしらなかった。実際は貧しい農家の息子で、才能と野心を持ち、あらゆる仕事をしながら若くして裸一貫から立身出世を果たしたのであった。それもこれも第一次世界大戦に出征している間に、他の男と結婚してしまったデイズィを取り戻すため。彼女にふさわしく選ばれる人間になるために、後ろ暗いことにも手を染めてきた。五年間想い続けて、やっとデイズィに手の届きそうなところまできた、という場面である。
デイズィを招待したギャッツビーが家の中を案内して歩くくだりで、色とりどりのワイシャツを見て彼女が泣き出すところがある。

「なんてきれいなワイシャツなんだろう」しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中から、こもって聞こえた「なんだか悲しくなっちまう、こんなに――こんなにきれいなワイシャツって、見たことないんだもの」

窮屈な寂しい悩ましい気持ちに囚われていると、きれいなものを見ても目には映らない。このときのデイズィは結婚して初めて開放感を味わっていたのかもしれない。
しかし不幸な偶然と行き違いの末、デイズィが運転する車でマートルは轢き殺され、その車の持ち主であるギャツビーは勘違いしたマートルの夫に射殺され、撃った本人も同じ銃で自殺する。よせばいいのに、嫉妬と喪失で気の狂ったマートルの夫に、わざわざ車の持ち主を教えたのはトムであった。ギャッツビーが愛するデイズィを庇い、事故当時彼が運転していたものと周囲が誤解するまま、ひとことも言わず罪を被っていることにも気付かずに。
残ったのはトム・デイズィ夫妻と、傍観者のニックである。そしてトムは言う。

「もしきみがだな、おれだけはつらい思いをしなかったとでも思うのならだよ――いいか、おれがあのアパートを引き払いに行って、あの犬のビスケットの箱の野郎があすこの食器棚の上にのっかってるのを見たときには、おれは、坐りこんで赤ん坊みたいに泣いたんだぜ。まったく、たまらなかった――」

人が三人死んでも、結局トムにとってはその程度の話だったのである。

ぼくは彼をゆるすことも、好きになることもできなかったが、彼としては自分のやったことをすこしもやましく思っていないこともわかった。なにもかもが実に不注意で混乱している。彼らは不注意な人間なのだ――トムも、デイズィも――品物でも人間でもを、めちゃめちゃにしておきながら、自分たちは、すっと、金だか、あきれるほどの不注意だか、その他なんだか知らないが、とにかく二人を結び付けているもののなかに退却してしまって、自分たちのしでかしたごちゃごちゃの後片付けは他人にさせる‥‥

都会的というか、いまでいう困ったちゃんである。軽薄なヤッピー、モラルの欠如したオツムの軽いおバカさんというヤツである。自分のように『野暮な潔癖感』を持った人間は、こういう手合いとは関わらないのが一番だと、ニックは田舎に帰ることにする。

「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには、五つほど年をとりすぎました」

‥‥まともな年の取り方をしたいものである。