映画:グラン・トリノ(監督:クリント・イーストウッド)

朝鮮戦争の帰還兵ウォルト・コワルスキーはフォード社を退職し、妻も亡くなりマンネリ化した生活を送っている。彼の妻はウォルトに懺悔することを望んでいたが、頑固な彼は牧師の勧めも断る。そんな時、近所のアジア系移民のギャングがウォルトの隣に住むおとなしい少年タオにウォルトの所有する1972年製グラン・トリノを盗ませようとする。タオに銃を向けるウォルトだが、この出会いがこの二人のこれからの人生を変えていく…。

ブルーカラーの気骨である。
クソ爺のコワルスキーはアジア人は米喰い虫のイエローだし黒人はクロ野郎と口汚く罵る。差別主義バリバリなのかと思いきや、床屋もイタリアのクソ野郎だし、工事現場の監督もアイルランドの酔っ払いで、自分すらユダヤ人だけどな! とくるに至って、自らも含めた全部に対してそうなら逆に平等で一周回って差別でも何でもなくなっているんだな。喰えないオヤジである。差別というよりは区別。むしろ『みんな同じ』なんて無責任なヌルい嘘を盲目的に信じたりせずに、しっかりいろんな人間がいることを認識している何よりの証左なわけである。
クラシックカーグラン・トリノは往年のアメリカの象徴であろうし、それを譲ったのがモン族の子孫であるタオだったというのはたまたまで、実際は人種は何でも良かったのではないかな。何故ならアメリカは人種の坩堝で、それを構成しているのは白人だけではないから。
私の父はサラリーマンだがいわゆる現場叩き上げというやつで、実家にも日曜大工の好きな父が少しずつ集めた工具の類がたくさんあった。アメリカの一軒家のようなガレージとはいかないが、そうした工具を置いておく外物置も父が手作りしていた。私が物を弄ったり作ったりするのが好きなのは、そうした父の影響が強いのだと思う。母も編物や手芸が好きだったが。
コワルスキーとその息子との関係のように私も両親とはあまり折り合いがよくなくて、いまは離れて暮らしている距離がちょうど良いのだが、気がついたら何故か父と同じような職についてしまっている。細かくいうと職種は違うのだが、大雑把に見るとやってることは似たような感じなんである。
そう思うと、フォードの組立工の息子がトヨタのセールスマンというのも、セールスするのは何も車じゃなくたっていいのに、実はそこらへんがオヤジの影響だったんじゃないかと勘ぐってしまう。息子たちはそれぞれしっかりひとり立ちしてうまくやっている。これ以上オヤジが面倒みなくちゃならないことはない。孫だってお爺ちゃんに甘やかしてもらわなくたっていいだろう。あとは自分たちでやっていけ、というだけである。
牧師も昔はコミュニティのなかで育てられたんだろうな。最初から上っ面の説教臭いことが言えればいいのではなくて、地域に溶け込み住民の心の支えとなることが牧師の職分なんだろう。コワルスキー爺さんとやりとりするなかで、牧師もまた成長していく。爺には爺の役目ってもんがあり、芯の通った生き方をしていれば素で接しているうちにいつの間にか果たされているんだな。
コミカルなやりとりもあって途中で何度も笑ったけども、最後はこれまたじんわりと笑ってしまった。感動して号泣というのとはちょっと違う。全うした生き様は決して不幸ではないし、なにより本人が心に決めた贖罪だったのだろうし、思惑通りの展開にコワルスキーもニヤリとしたことだろう。後生大事に育てられ、ちょっとしたことでトラウマだなんだと大騒ぎする世代には出来ない芸当である。コワルスキー爺さんにもトラウマはあるが、それを言い訳に泣き言を並べて終わったりはしない。描かれているのはそんな古臭い、しかし偉大な父性のありかたである。
しかしああ、いい映画だったなぁ。ジジィ好き工具好きメカニック好き、加えて犬好きの私のヒットポイントをビシバシ貫かれた。もうどうにでもして。これなら『チェンジリング』も観ればよかったかなぁ‥‥って、まだやってるなぁ‥‥。