刃物研ぎ

先日、包丁を研いだ。最近の砥石は便利なもので、前もって半日も水に浸けておかなくとも思い立ったらちゃちゃっと濡らしてそのまま研げる。それだけでだいぶ刃物研ぎのハードルが下がるってもんである。
包丁くらい長い刃物になると、難易度が高くて私あたりではなかなかうまく研げない。刃のついた角度に合わせてしゅーっと音を立てて引く。ピタリと角度が合うと砥石に吸い付いて急に手応えが重くなる。その位置を探りつつ真っ直ぐに、しかし包丁の曲線は滑らかに整えていくわけである。鉋ならその刃の幅は砥石に収まる程度であり、研ぎの方向を調整すれば角を丸くするように中高に研ぐこともできる。しかし石よりも幅のある刃物をどうしたら滑らかに研げるのか、いまひとつ掴めない。それでもなんとかかんとか研いだものの、やはり位置によって切れ味に差のある仕上がりになった。研ぐ前よりは切れるからいいか。
研ぎながら親指の先でちょいちょいと触って切れ味を試すので、終わった後はしばらくiPhone指紋認証に撥ねられる。いつだったかまぐれで上手く研げたことがあって、その時は触っただけで血が出るほどさっくり切れた。以来、砥石に向かうたびにあの切れ味を目指すのだけど、再現できない。あれはなんだったんだろう。
ときどき別の世界が垣間見えるけどどうしてもそちら側には行けないというようなときがある。詰まらないことをいえば、一足飛びで別天地に到達できるなんてのは幻想で、地道な努力の末に気がついたらいつの間にかそこにいるものだ。そもそも現在地と地続きなのであって、宙に浮いた桃源郷が存在しているわけでもない。それでもここから見るとあちら側は悩みから解放された憧れの境地なのである。たとえ別の悩みを抱えるにしても、それはその時に考えればいいことだ。
刃物を研いでいる時間は静かで楽しい。集中しないとできない作業で、他のことの入り込む余地がない。刃物は繊細で美しい。でもたまにしかやらない。