映画『マッドマックス:フュリオサ』監督:ジョージ・ミラー


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ジョージ・ミラーのマッドマックスである。怒りのデスロードから9年、あの興奮はいつまで経っても冷めない。いやぁ、あれは凄かったね。映像表現の極北だ。
そのスピンオフであるので、初見の衝撃はやはりない。その前にシリーズ4作目の怒りのデス~が何故あんなに衝撃的な出作だったのかが謎なんだが、それはそれ。近い時間軸のビフォアストーリー形式なので舞台がほぼ一緒なのである。説明回ともいう。
以下、ネタバレを気にせず書く。
前回の怒りのデ~ではあまり説明されずただただ圧倒的な映像の説得力で紡がれていて観る側は推測と想像で補いつつストーリーを理解していく作りだった。それが今回はフュリオサの来し方とともに舞台装置の説明がなされていて、あーなるほどなるほどそういうことねという答え合わせのような作り方であった。沼地の人の謎はまだ残ってるけど。主人公がある舞台装置にポンと置かれた場合、他所から来た人物であればそのまま主人公の体験・認識とシンクロしながら見ることになる。怒りの~ではマックスはいきなり物語の途中に突っ込まれ訳の分からないまま振り回される過程を通して世界の異常さが描かれるのに対し、フュリオサは幼い頃に攫われるが健康な女子であったことと出身地の秘密を保持していたために財産として大事に扱われるので、周りを見渡し別の生き方を模索する程度の余裕があり、物事の順を追っていろんな設定が見えてくる。キーマンになるディメンタスがよく喋るしな。なので観ている側も余裕をもってつぶさに観察できるわけだ。マックスのときは周りのウォーボーイズが「死ぬにはいい日だ!」とか「俺を見ろ!」とか「V8!」とか叫んで次々爆死していくので訳が分からなくて最高だったが。
ところでクリヘムさん、闇落ちしたディメンタスとか言ってるが、まんま闇落ちしたソーじゃないですか。マントが赤くなってるし、狙ってませんか、これ。その格好にバイク3台に曳かせたチャリオットが妙に似合う。マッチョマンで男性性の象徴ともいえる役どころである。いらんこともよく喋るしな。
フュリオサ役のアニャもワイルド感溢れてて素晴らしかったが、少女時代の子役さんがこれまた雰囲気のある凄い美少女だったな。アリーラ・ブラウンというのか。アニャ・テイラー=ジョイはクイーンズ・ギャンビットの人だな。頭が良くて度胸もあり闘う役どころが目に表れているな。女は表に出ると黙らされるので無言で闘うしかないのである。
ディメンタスがしょうもないことをペラペラ演説しているのをよそ目にイチャコラするフュリオサとジャックがよかったな。ひとつの画面の中でいろんなことが起きており、それが端的に状況を表しているのがこのシリーズの特徴ともいえる。情報量が多いので見る側は忙しい。
キリスト教的な背景、労働搾取、フェミニズム、家父長的なディストピア。フュリオサはいろんな背景を背負ったニューヒーローで、ガスタウンで壁に描かれていたのはヒュラスとニンフたちだね。その背景はこちらに詳しい。

『マッドマックス:怒りのデス・ロード』では、ジョージ・ミラー監督がフェミニスト劇作家のイヴ・エンスラーにサポートを要請し、エンスラーは俳優たちに対して世界の紛争地域で起きている女性への(性)暴力について講義を行ったという。こうした視点の多様化と、フェミニズムへの理解が、女性が活躍するかつてないアクション映画としての新生「マッドマックス」を生み出した(ただ、公開当時はこうした女性の主体性を描くあり方について「男性権利団体」からボイコットの呼びかけもあった)。

ボイスによる《ヒュラスとニンフたち》の撤去と、フュリオサの活躍する「マッドマックス」は、芸術表現と権力構造や暴力に関する問題意識をともにしている。こうした点からも、《ヒュラスとニンフたち》が『マッドマックス:フュリオサ』に登場するのは、明確な意図に基づく選択だと言えるだろう。

 

『マッドマックス:フュリオサ』に登場する「ある絵画」は何を意味しているのか? ギリシア神話と「ファム・ファタル」から考察する|Tokyo Art Beat

マッドマックスは背景を深掘りするといろんなことが出てきてすべてを書き切れなくなるのだが、その重層的な成り立ちが細部のディティールにいきわたって神がかった出来上がりになるんだろう。神は細部に宿るというが、細部だけ凝ればいいというものではないんだな。