かけ離れた存在は認知できないし

昨日に引き続き与太話。週末図書館に行き損ねたので、読む本がないせいで脳みそが暇なんです。


どうも理解できない人って、世の中にはいる。好きになれないじゃなくて、行動や思考回路が予測できないぐらい、自分とかけ離れた人。
今までの来し方や家族などの構成要素を知って、その人の身になって考えれば、ある程度理解できるでしょ、と不遜にもある年齢までは思っていた。でも甘かった。
何故そうなる? どこをどう押せばそういう結論が出るのよ? という人はたまにいるものらしい。*1別にその人が天才だとか、逆に駄目人間だから私の認知が及ばないのではない。もっとも、私の頭が硬いから、というのはありそうだが。


何事につけ基準をどこに据えるかって、そりゃ経験・環境などの外部入力を自分の頭で内部処理して、状況を当て嵌めたり分析したりした上で、適当だと自分が思う任意の点に置くわけだ。その点は同世代の半径三百キロメートルぐらいの範囲でなら、多少のズレはあっても大体似たような場所にありそうだ、と楽観的な予断を持って生きている。
他人と相対する際に、自分が体験したことのない感情や状況については、内部で再現しようがないので、無視するか都合の良いように解釈しておく。
その自分が体験したことのない感情や状況によって、ある人の人生観が決定的に変わったとしたら、それをトレースすることは可能だろうか。判らないところは想像で補うとしても、やっぱり追いかけきれない部分は出てくるだろう。矢を射掛けるのに手元が少しズレていたら、距離のある的に当たる頃にはかなり大きく外れているんじゃなかろうか。
そもそも他人を丸ごと理解できるわきゃないんだし、それはお互い様で暗黙の了解事項なので、大きな齟齬をきたさない限りは多少の誤解や差異には目をつぶる。が、いくら無視してもズレは消えるわけじゃないので、そこから生まれる軋轢が、素敵な刺激になったりストレスになったりするんだろう。
そういう処世の惰性があるので、あまり厳密に「あの人はこうなんじゃないか、ああなんじゃないか」と考えることはないし、その前に判ったつもりになるほうがタチが悪い気がする。


判らないことがある。
それは大前提であって、それが辛いか苦しいかなら、考えなきゃならないかもしれない。

*1:お互い様だが。