そして万物は流転する

昨日の続き。
社会とは何かと考えるとき、私には半透明の小さな粒々の集合というイメージが浮かんでくる。アメーバのような、魚卵のような、消臭剤の「無香空間」のような、粒の集まりがねっとりとまとまっている。それを乗せた台を傾けると一方に流れるし、中にある粒のひとつを取っても全体には変わりないが、全体は粒でできている。粒はそれぞれ集合の中で浮き沈みしたり、消えたり生まれたりしているが、全体のまとまりは変わらないともいえるし、やっぱり少しずつ変わっているともいえる。
法律も世間知も、人が作ったものだ。誰かがひとりで創作したのではなく、時代のうねりの中で様々な人間が少しずつ作り上げたものだ。学問の体系が積み上げられていくのと似ている。
今も着実にその動きは進んでいる。人間はどこかへ向かって進もうとしている。
否応なしに人はその中で生まれるし、その中で死ぬ。これは選べない。厭だといっても仕方がない。例外はない。この世に生きている限り、全体はひとつで、ひとつは全体だ。


世の中の仕組みが気に入らないからといって、誰かを責めれば解決するわけではない。そこにあるものは、自分と同じようにあるのだ。存在を否定しても始まらない。
あるというのは物体とは限らない。目に見えない仕組みもある。思い込みでも、誰かの脳内であるなら、その誰かにとってはある。誰かが何かをそう思ったなら、その誰かにとってはそういうことなのだ。
それを変えることはできる。そもそも、同じ形を永久に保持するものなどない。物体は風化するし、それに纏わる意味やイメージは、時と共に変化する。あるものが変化すれば、もうそれはあるものではない。


しかしこんなことはどうでもいい。
社会とは便宜的で暫定的なものである。
しかし、だから社会のルールを守らなくていい、というのは短絡だ。
社会は自分であり、自分は社会なのだ。今現在、進行形でそうなのだ。社会で判りにくければ、世界に置き換えても良い。
例えば、人を殺す。その時点で、人殺しの世界が始まり、人を殺さない世界はなくなる。他の粒にとっては、人殺しのいる世界だ。ルールを破ればルールを破った世界に変わる。
動くのは自分だけではない。他の粒も、絶えず周りを見ているし動いている。自分が動かなくても、周りが動くせいで環境が変わることもある。
繰り返すが、社会はどこまでも暫定的なのだ。逃れることはできない。
社会とは何か。粒々の集合で、自分と他の大量の粒との関係であり、全体の中での立ち位置でもある。


と思うよ。(最後に逃げかよ)