人生の先達

だいぶ年上の女性と雑談していて、厄年の体験談になったことがある。
彼女は大厄のとき、一軒の借家に住んでいたという。昭和の半ば過ぎの話だ。
小さな子供がいて、旦那さんは出張が多かった。そのときも家を空けていたそうだ。夜、彼女は子供を寝かしつけ、自分も布団に横になった。
ふと夜中に目が覚めると、おかしな気配がしたという。室内の暗がりに、何か影がいる。
彼女は驚いて声を上げた。
すると影は急に動いた。見知らぬ男となって彼女にのしかかってきた。隣で寝ている子供は、目を覚ます様子はない。旦那さんは今日は帰ってこない。恐怖と混乱で痺れそうになりながら、彼女は手足をばたつかせて必死で抵抗した。
しかし男の方が力が強い。徐々に疲労してもうこれまでかと観念しかけた彼女は、自分でも思ってもみなかった言葉を発したのだそうだ。
「ああ、神様‥‥!」
無宗教の彼女が、どうしてこのときこんなことを口走ったのか、今でも判らないという。だが効果はてきめんだった。
男は急に動きを止め、ゆっくりと後ろに下がった。何が起きたのか彼女にはよく判らなかったが、おそるおそる身を起こしてみると、男は畳に額をこすり付けて小さな声で謝っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい‥‥こんなことするつもりはなかった‥‥」
彼女が立ち上がって電灯を点けようとすると、男はそれだけは勘弁してください、と懇願した。哀れをもよおすような姿だった。
彼女は少し気を取り直したが、しかし相手は他人の家に勝手に上がりこむような無法な男だから、またいつ豹変して襲ってくるか判らないという不安は去らなかった。明かりをつけたら逆上するかもしれず、かといって弱気になって下手に出てもよくない気がした。そこで、ここを先途とばかりに毅然とふるまうことにした。
暗いままの室内で、うなだれる男に正座させ自分も対面して、こんな事をして恥ずかしいと思わないのか、一体どういうつもりだったのだと、懇々と説教した。応えて男が言うには、寝ている隙に泥棒に入るつもりだったが、彼女が目を覚ましたので咄嗟に襲おうとしたのだそうだ。
最初は慌てていて思い至らなかったが、ここまで聞いて彼女にも思い当たる節があった。近頃、近所で泥棒が頻発していたのだ。手口が似ているから、同一犯だろうといわれていた。お巡りさんが注意を呼びかけて家々を廻っており、彼女の家にも話は来ている。とすると、この男がその連続窃盗犯なのだ。
どうしよう、と彼女は迷った。頭が混乱して何も判断できなかった。それでも子供を守らなければ、と思うと挫けてはいられなかった。
だが男はすっかり戦意を喪失したらしく、このまま出て行くから、申し訳なかった、と言っておとなしく立ち上がり、入ってきたとおぼしい台所の窓に向かった。
「出て行くなら、ちゃんと玄関から出てってください」
彼女は男の背中に声をかけたが、
「自分は玄関から出入りできるような人間じゃないから」
と男は器用に台所の窓から出て行った。


あの頃、と彼女は遠くを見ながら言っていた。
若い頃は表面の綺麗な部分しか見えなかったけど、あの頃にこの世の汚い部分を厭というほど見せつけられた。やっぱり厄年ってあるのよ。
その言葉の重みが、この頃は少し判ってきた気がする。