思い込みで喰わず嫌いのこと

ミクシィというものが話題になって早数年だが、実は私は入ったことがない。単に誰からも誘ってもらえない寂しい身の上だからなのだが、この「誘ってもらえなければ入れない」というシステムを聞いたときは、どことなく厭な感じを受けたものだ。
招かれない魔女のような僻みもかなり入っているが、それを置いても、人づてで入る=仲良しこよし、というイメージに囚われたせいだろう。


私はどうも通り一遍以上の社交辞令にはアレルギーがある。
グダグダとどうでもいいことをこねくり回すのが、気色悪くて仕方ない。お互い心にもないことを言い合い、褒め合って「誉れ」を相殺しあってどうするのだ。なら最初からやんなきゃいいじゃないか、と思う。
思うが、他人との距離のとり方は人によって違うのだし、私だって自覚がないまま鬱陶しいと思われている部分はきっとあるのだろうし、あまり私は私はと自己主張するのも大人気ない。
大人気ないからなるべく我慢することにしている。特に実生活では、親戚づきあいや職場の人間関係など、無視できない厭でも社交辞令の応酬をしなければならない場面というものが、必ずある。いいトシこいたオバサンとしては、それくらいのスキルがなければお話にならない。
しかし度が過ぎると人間をやめることになる。
「あの人、口はああ言ってるけど、本心は違うんじゃないかしら」だの、「人の言う事を真に受けて、信用しちゃダメ」なんて口走るようになる。まさに人を見たら泥棒と思え状態である。疑心暗鬼で他人の心を悪意に捉えなければ、現実とのバランスがとれなくなるのだ。そういう妖怪をなんと呼ぶのだろう。
狼少年の原理というのもある。心にもない褒め言葉を連発していると、本当に褒めたいときにも信用されないし、何を言っても本気で取り合ってもらえなくなる。


変な馴れ合いも苦手だ。
昔から趣味を他人と共有するのが不得手だった。あれいいよねー、そうだねー、という以上の関わりは軋轢を生む。狭いグループ内でにゃーにゃー同じことを何度も言い合い、挙句に張り合って喧嘩して、何が楽しいのか判らん。
私は基本的に自分と他人は別個の人間だという観点に立っているので、たとえ一部に共通点があったとしても、またどんなに仲良くなっても、相反する独立した人格であることには変わりないと思っている。というか、独立していて欲しい。そういう世界観であるというより、どっちかというと願望だ。
超がつくほど個人的なことなのに、我も我もと同調されるとひく。生活環境も家族構成も昨日寝た時間も違うのに、何でも同じ意見なはずはない。あまり続くとたまには違うと言ってみろ、一人で立てねぇのかひょっとこ野郎、と意地悪したくなる。一方的に擦り寄ってきて、スライムのように同化しようとされるのは気持ち悪い。
傷を舐めあったらばい菌が入るじゃないか。そんなバッチィことして化膿するのは厭だ。
山登りをしていて同じパーティの人間が体調を崩したら大ごとだし、その経緯と動向については、私も非常に関心を持つと思う。だが私には登山の趣味はない。まあ、そこまでいかなくとも、一緒に住んでいるとか組んで仕事をしているとか、一蓮托生で相手がコケたら自分も危ないという状況なら、場渡り的に酌量する手段を考えるという現実的な作業があるので、同情は出来ないが正直に話して欲しい事柄というのはある。だがそういった数少ない例外を除けば、私的な事情というのは大概は他人にとってはどうでもいいことなのだ。
現実的に関わりのない他人にどうでもいい愚痴を聞いて欲しいなら、ネタを混ぜるなり粉飾するなり笑いに持っていくなりお涙頂戴するなり、ある程度の努力は必要だろう。ひとりごとなら垂れ流しでもそれはそれで構わないが、返事を求められても困るし、逆に積極的に同情されても困るものだ。


ああ、厭だ。リアルで充分我慢してるのに、なんでネットでまでそんな活動をせねばならんのだ。


ミクシィのシステムを知ったとき、こんなことが一瞬のうちに頭に浮かんで、そんな自分にうんざりした。
尚、これは全て私の勝手な思い込みであって、実際のミクシィというサービスとは一切関係ない。