土地が変ったからといって人の営みが変るわけではない

通勤が短くなったので、嬉しい。その分、書くネタを練る暇もなくなってしまったが、それはちょっと馴れてきて日常が日常でしかなくなってきているのも一因かもしれない。
多少の外部刺激がないと内部でも運動が起こらない。やむにやまれず湧き上がる何かというものは私の中にはないのだと、フリーターと無職を繰り返したここ数年で思い知った。
何かのコピーだったと思うが、“心が揺れたとき、人は人に伝えたい”という言葉をいつも思い出す。
どうしても伝えたい何かなどない。
外側からポンと叩かれて、自分の中にさざなみが起こる。それが感動なんだろう。何かを言いたいと思うときは、その運動エネルギーを外に伝えたくなるのだ。右から左へエネルギーの伝播。人はただの抵抗体で、そこを信号が屈折しながら通り抜ける。
だから表現というのは刺激をどれだけ美しく奇抜に屈折させるか、どんなエネルギーに変換できるか、なのだと思う。それは内部の蓄積されたものにもよるのだろうし、透明度にも関わってくるだろう。どんな種類の内燃機関で燃料はどういうものが適しているのかとか。その前にどんな刺激をどれだけ受けるか。多ければ好いというものでもないだろうし、質だって向き不向きがあるだろう。だが、外部刺激がゼロに近いほど、内部も動かない。動かないほうが好い場合もあるので注意が必要だ。
本当の意味での創造はあり得ない。凡ての材料はこの世の中にある。だがそれはたいした問題ではない。
そうやってエネルギーは形を変えて世界を巡る。


でもたまに、本当に身内からエネルギーが湧き上がっているんじゃないかと思わせる人もいる。
脂ぎっているとか精力的だという意味ではない。外見・肉体は関係なく、奔流のごとく何かを迸らせる人というのはいる。真空からでも何かを掴み出す能力を持っているか、生命を削る方法を知っている、一種の天才なんだろう。


一番最初のエネルギーは何処から来たんだろう。