映画:ダイアリー・オブ・ザ・デッド(監督:ジョージ・A・ロメロ)

大学の映画学科に通うジェイソンは、ペンシルバニアの山奥で仲間と共に卒業製作のホラー映画を撮影していた。スケジュールは何日もオーバーしており、役者もスタッフも疲れていた。そんな時、ラジオから衝撃のニュースが流れた。世界各国で死体が息を吹き返し、生きている人間を襲い始めたというのだ。山を下り、信じられない光景をを目にしたジェイソンたちは、死人が人間を襲う様子を全て撮影することを決意するのだった。

かのロメロのゾンビである。お噂はかねがね、という感じで観に行ったというか連れてってもらった。何故ならクローバーフィールドが面白かったからである。しかし実際、シリアスなんだかどうでもいいんだか、どっちつかずで焦点がはっきりしなくて良く判らないまま観続けたら頭が疲れた、ゾンビ初心者。途中でちょこちょこ編集してたり複数のカメラが出てきたりナレーションが入ったりで、微妙に緊張感を殺いでいる気がする。なんかシリアスぶった青臭い素人っぽいネット評論がでてきたりして、あれはどうでもいいんだよね? と思わず同行者に確認してしまった。これが「ストーリーはどうでもいい」ってヤツかぁ。新たな地平。
とにかくゾンビが出てきて、逃げ回りぶっ殺しまくればいいのか。同じぶっ殺しまくるなら『デスペラード』が大好きだったけど、ゾンビ映画で相手がゾンビである理由はなんだろう。『スターシップ・トゥルーパーズ』では敵が虫だから良心の呵責を感じなくて済むというのと対照的に、人型で卑近な人間が変化しやすい分だけおぞましさが増すということだろうか。
まあ、人間って《人が別物に変化したモノ》が一番恐ろしいもんだよな。しかしそれって地球上では《ホモ・サピエンス》が一番知能が高くて敵にしたら厄介であるという事実と、もうひとつ《仲間=自分と同類》だと思っていたものが《違うものになってしまう=一線を越えてしまう=自分もそうなる可能性がある=現在属しているコミュニティから排除されてしまう=未知の世界へ行かなくてはならない》という根源的な恐怖、つまり死体に対する恐怖なんじゃないかと思うんだよな。
あ、てことは《死体=ゾンビ》だから、恐怖を煽るものとしてはそれでいいのか。
でもゾンビって、実際に見たら物凄く怖いだろうな、とは思う。しかし映画の中の話じゃないけど、カメラや画面を通すと直感的身体性に関係のない別の世界の出来事になってしまう。ハイテク戦争では人を殺している実感が湧きにくいというのと同じ。
そうした根源的な恐怖を視覚を通して表現しようとすると、「だからなに?」ってなっちゃってとても難しい。それよりも闇夜に蝋燭の炎を囲んで語られる怪談話のほうが、想像の余地があるだけにより直接的に心に作用する気がする。『ミスト』が怖かったのも、霧に隠れて物事が見えないからだったしな。
てことはなんだ、ゾンビ映画っていうのはセンセ−ショナルで興味本位で露悪的なところを楽しむものであって、実際に恐怖を煽るものではないのか。逆にほら、想像して怖がってるものなんて、実際に形を与えて目に見えるようにしたらこんなもんだよ、と。なんだ、さてはこーゆーのを作ってるヤツも見てるヤツも、実は物凄い怖がりなのに違いないな。
なんにせよ、私としては一番良かったのは黒板を首から提げたおっさんだった。これぞ強く逞しい正しい農民。