残された時間はあまりない

まだ不惑にもならない年齢だが、残された時間ということをたまに想うようになった。
十年位前、腎炎をこじらせて死に損なった。年齢など関係なくこんな風にして人は死ぬんだなと、白い四角い天井の角を眺めながら、高熱で朦朧としたまますべてを手放す覚悟を決めた。いや覚悟なんて気張ったものではなく、ただ生にしがみつく手指から力が抜けた、諦めたといったほうが妥当かもしれない。
ところが峠はその一晩だけで、次の朝に目を覚ましたら昨日の続きが当たり前のように居残っていた。わずらわしい付き合いや面倒な仕事、楽しいこともあるだろうけどこれからまた死ぬまで猶予された冗長な茫漠とした時間。いっそ死んでスッキリしたかったのかもしれない。
この体験は自己の小ささとるに足らなさをくっきりと私に刻印していった。何の途中で死んだってどれほど無念だろうと、私は死んでから化けて出るほど凝ることなんか出来ないだろう。あのときに感じた宇宙の内圧の前には、人の魂なんて塵のように吹き散らされる程度のものに思えた。
人はいつか死ぬ。しかも自分が思っているよりも早く。それは質量を伴った実体のような確固たる実感であって、恐ろしくはない。そして妙にいつ死んでもいいという気分になった。自ら命を絶とうとは思わないが、生命とは前触れなしに突然取り上げられるものらしいという予行演習を経て、おそらくどんな状況であれ老齢まで生き長らえたとしてもやはり何かやりかけで死ぬのだ、しかしそれがどうした、どちらにしろどうせ大したことじゃないと半ば投げやりに納得するに至ったのだ。
そういえば所有欲や収蔵欲が薄くなったのはあれ以来かもしれない。死んでしまえばお仕舞いだ。この身体とこの心を持っているうちに、体験や経験を積み重ねるほうに心を砕くようになった。もちろんそれとて死んでしまえば終わりだ。むしろ物は人がいなくなっても残るのに対して、経験は人とともに消えうせてしまう。なにかを残したいわけでもない。ただ私がモノより経験を志向しただけのことだろう。
ならば、できるだけ好きなことをしようと心に決めた。生きている間に困窮するのは厭だが、最低ラインで現実と折り合いをつけたら、あとはせめてやりたいことをやって死ぬのだ。いつかなどといっていたら、いつまで待っても心を残したままになる。いや残る心もなく消えてなくなる。厳然とした消滅の前には、お為ごかしに費やす手間がアホらしくなった。心に響かないものはいらない。楽むこと・好きなことをすること、それは死出の旅への心の準備でもある。
ところで、何の話をしようとしていたのか途中で判らなくなった。