人間という物語

望むと望まぬとに関わらず、文章には生き様というのが現れてしまうんだと思う。書かれなかったことは「書かれなかったこと」として残り、誤魔化したこととは「誤魔化したこと」として残る。
ひとつの記事や言い回しを巡って喧々諤々かまびすしいやり取りをするのには少し違和感を覚える。ひとはよく知らない人については容易に無視したり軽んじたり出来る。なにか漠然と態度が鼻につくこともある。しかしどんな人か判らないから言動に予測がつかず、それゆえに負の感情を呼び起こして最大限の警戒をするのは人の感覚として当たり前なのではなかろうか。
それなら相手のバックグラウンドを知れば同じ事をしても妙に「赦せる」ようになってしまうのも腑に落ちる。ひととなりが掴めれば信用することが出来る。しかしてかくなる信用とはなんぞや。つまり己の不利・不快にならないように立ち回れる自信ということではなかろうか。このひとならこういう場合はこうするだろうと予測がつくから、予定調和が生まれるのだ。それがないうちは、失礼なことをしないようにより気を遣う。持てる力の範囲や方向を示し、敵対するつもりはありませんよとパフォーマンスする。ここで変にへりくだる人には、私は逆に警戒する。爪を隠す鷹とは、翻って相手に把握されたくない、手の内を見せようとしないということだ。隠されたものが何かは判らなくとも、隠されたということは判るものだ。信用されたいと思ってないだろ、それ。
ところでweb日記・ブログという形式には、時系列に沿って流れが出来る。時の流れが出来ると物語が生まれる。ひとつひとつの記事が興味深いに越したことはないが、それよりも積み重ねによって変遷が目に見える形で示されるようになる。調子の良い時期はもちろんコケたことなども含め、すべて次へ繋がる糧となる。起こったことは必然である。内容の変化はもとより文章の調子の移り変わりなども、書いている人物像を肌で感じる要素となる。ひとはそこに一個の人間の物語を見るのではなかろうか。とこないだ『ガープの世界』を読んでいて思ったのだった。
ここではひとはコンテンツのひとつ。そしてすべてうまくいくだけの化け物なんて存在するわけがない。