映画:ルイーサ(監督:ゴンサロ・カルサーダ)


初老のルイーサは毎朝まだ暗いうちから出勤する。自宅の建物を出るときに管理人の男と挨拶を交わす他は、誰もいない街をバス停まで歩く。バス停でも乗り合わせる人はいない。最初の職場は墓地なので人っ子ひとりいない静けさである。仕事は墓場の管理事務所での電話番で、普段はルイーサのほかには誰もいない。もうひとつの職場は華やかなスター歌手の自宅だが、忙しい家主に代わって家事をするのが仕事なので、軽く打合せをしたらあとは広いフラットにひとりきりである。自宅に戻っても家族の古い写真はあるが、いま同居しているのは猫が一匹だけ。自分のペースを崩したくないので近所づきあいも避けている。職場と自宅を往復するだけの単調なルイーサの生活を追うと、目に入るのは壁に囲われた何種類かの箱の中と、誰も歩いていない暗い街角だけである。
それが愛猫と仕事を次々と失い、仕方なくいつもと違う時間に外へ出るようになると、急に視界が開けて高い建物の向こうに空が見えてくる。路上でかき鳴らされる音楽が鳴り、人々が彼女の周りを歩きだすのだ。
失業してお金に困った彼女は、初めて乗った地下鉄で見た物乞いを真似することを思いつく。表情は硬く、他人の慰めの言葉も聞き入れず、とにかく我が道を進もうとする頑固一徹さはキンキンに張り詰めていることの裏返しなのだな。普通に考えたら次の仕事を探すのが順当だろうに、手っ取り早く小銭を稼ぐ方法を探したのは、死んでしまった猫の火葬代を捻出したかったから。ただでさえ辛い人生に突然の失業が重なって、もうなにはどうあれ猫をちゃんと埋葬してやることしか考えられなくなったのだろうな。
なんだかとても覚えのある感覚で胸が痛い。失業して誰にも頼れず、自分ひとりで何とかしなければと思い込むのはよく判る。やりたくなくともそんなことをするのは初めてでも泥水を舐めるようなことであっても、目をつぶって動かなければ仕方ない。こういうとき最初は身体が震えるし、映画の中にはなかったが過呼吸にもなるし、馴れない緊張から腹を下したり吐いたりするんだよ。手のひらからいろんなものが零れ落ちるとき、最後まで残しておきたい大事なことは何か。友を守ることか、法を曲げないことか、身を持することか。人それぞれがギリギリの選択をする。ルイーサにとっては、それは人生の友であった猫をきちんと荼毘にふしてやることだったのだろうな。
しかし辛い一方かというとそうでもなく、室内ではモップスリッパを履いていたり、若い管理人夫妻は健康的にエロかったり、南米ラテンの気風なのかどこか間が抜けていてコミカルだし、賑やかな音楽もとてもいい。
最初は物乞いもうまくいかないし、料金が払えなくて電気を止められたりもする。しかし突っかかっていた乞食の先達とも次第に打ち解け、誰かに相談すべきことは相談できるようになり、闘うべきことはやはり闘わねばならないことを理解し、文殊の知恵で解決方法を見つけることが出来るようになる。そうしてようやく猫を火葬にしてやれたとき、ルイーサは初めて声を上げて嗚咽するのだ。白い煙と彼女の泣き声が青空に溶けていく。
アルゼンチンのブエノスアイレスが舞台なのだが、『南米のパリ』と呼ばれている大都会らしくまるでヨーロッパのような美しい街並みであった。しかし内部の経済格差は激しく、通貨危機の打撃を受けた当時は失業率が25%にもなったらしい。最近はだいぶ景気も回復したようだが、他の方のブログなどを見ると実際にまだ街の至るところに物乞いの姿があるようだ。