ドーニモさんとコーニモさん

人様の真似っこして広告避けをしてみたが、これもどうなんだかなぁ。ブログを始めるにあたってはてなを選んだのは広告が出ないのが理由の筆頭だったのだが、先のことは読めないものである。仕方あるまい、8年も経ちゃいろんなことが変わっていく。しかしここも長いこと居座っているのでいまさら引越しも億劫だ。いっそ料金を払うかとも考えるのだが、他の課金サービスに有用性があれば併せ技ということもあり得たもののどれも私にとってはあんまり必要のないサービスなので食指が動かず決断しにくいのだった。
そんなこんなも脇に置いたまま、仕事がナニのソレでドーニモコーニモな状態をようやく脱し、ひと息ついたを通り越して脱力してなにもかもどうでもよくなっている。まあ、広告が出たって死ぬわけじゃないからな。掃除しなくたって洗濯物を溜めて明日穿くパンツがなくたって、考えてみりゃどうってことない。なるようになるのさと魂の半分抜けかけた阿呆面で嘯いてみたりする。抜けかけドーニモさんと溶けかけコーニモさんで漫才が出来そうな脳みその按配である。
炊事洗濯をすっぱり諦めて2週間、あれもやらなきゃこれも始末しなきゃと思い煩うことがなくなってみれば、随分と清々しいものである。床の表面にうっすら積もった綿埃に髪の毛が絡まっていたり、買い換えたモニタの古いほうが部屋の隅に寄せられていたりするのを眺めやり、背徳的な爽快感にほくそ笑む。冷蔵庫の中には配達された野菜が静かにそのまま残っている。毎朝エスプレッソを淹れる以外にはコンロにも触らず、パソコンすら立ち上げない。必要最低限しか物を動かさない家の中は何故か森閑とした空気がかたまっている。物は触っていないと生活臭が削れていくのかもしれない。よそよそしく硬い雰囲気が無関心に放っておいてくれるようで、居ながらにして「ここではない何処か」に潜り込んでいるような気分にさせてくれる。執着をなくし防犯も考えない小さな掘っ立て小屋に庵を結んだら、こんな感じが増幅されるんだろうか。
それもこれもこちらの心持次第、物は変わらずそこにあるだけで自分の側の愛着や見方感じ方が移ろっているだけなのは判っているけども、主観的には周りが引いているように錯覚するのが面白い。裸足で波打ち際に立って引き潮を眺めると、自分が後ろに引っ張られているような気がするのと似ている。