映画:ウォッチメン

ジョン・F・ケネディ暗殺事件、ベトナム戦争キューバ危機…。
かつて世界で起きた数々の事件の陰で、<監視者>たちがいた。彼らは“ウォッチメン”と呼ばれ、人々を見守り続けてきたはずだった―。そして1977年には、政府によりその活動を禁止され、あるものは姿を消し、あるものは密かに活動を続けていた。

原作は読んでいない。特にアメコミファンでもなく、これといった予備知識もなく観た。2時間40分の長尺だそうである。しかし途中で飽きることも無かったし、そんなに長くは感じなかった。スリリングで楽しかったし、過去を織り交ぜ詰め込んだストーリー展開に気を抜く暇がなかった。
ところでまず、ウォッチメンってジャスティス・リーグとは違うのか。あれはバットマンじゃないのか。他のヒーローたちはよく判んないけど、アメコミに実際いそうなキャラクターだし‥‥と思ったが、わざと《それっぽく》してるだけで全部オリジナルなのだそうな。80年代の米ソ冷戦をめぐり、核戦争の危機が叫ばれていた頃の話である。
それにしてもDr.マンハッタン以外はみんな常人だというが、ヒーローたちの闘いっぷりは拳で壁に穴を開け、弾丸をかいくぐり、音もなく2メートルくらい飛び上がり、陶器の便器を一撃で真っ二つにするなど、充分人間の限界を超えている。最初の暗殺のシーンで、あの高さから落ちたとして、本当にそれで死ぬのかどうか確信が持てなかったくらいだ。そこがいいのだけど。思い切りのいいアクションである。
人類の破滅を前にして超人の時を越えた目で見ると、という答えがいち個人の父親が誰なのかを暴くことだったり、解決策がそうすると平和になるっていうのはちょっと説得力に欠けるなぁ、とストーリー上で腑に落ちない部分はあるにはある。火星でのニコちゃんマークは、なんだかフリスクのCMのようだったし。
何が正義かというのはバットマンなどでみられるように、アメコミでは主要なテーマのひとつになっているのかな。人の数だけ正義はある。あちらを立てればこちらが立たず、情に棹差ゃ流される、というやつである。
そんなことを考えていて思い出したが、ずいぶん前のことだが車の運転をしていたら酔っ払っているのかラリっているのか、車線の真ん中をチンタラ自転車で走っているおっさんがいた。走っているというか、ゆっくりとジグザグに進んでいるので歩くよりも遅い。かと思うと、ニヤニヤしながら急にひゅうッとペダルを漕いだりして、速度が一定しない。確信的に身体を張って無差別嫌がらせを敢行している模様だった。
そう交通量も多くない田舎道で、関わりあいになるのは面倒だったしこっちは車なので大回りしてあっさり追い抜かしたんだが、信号で止まってしまい、車の列に並んでいるうちにそのおっさんは隙間を縫って信号待ちの列の先頭まで行ってしまった。その最前線でまた別の車の進路妨害をしたらしい。複数のクラクションが聞こえてきた。信号が変わっても列は動き出さない。前をすかして見ると、自転車のおっさんは車線の端に寄っていて、車の邪魔にはならないところにいる。風にのって「危ないでしょ!」となんだか言い聞かせているような声が聞こえる。信号待ちしている先頭の車を運転している人が、信号が変わるのにも構わずおっさんの迷惑行為に対して教育的説教をしているようだった。私はここぞとばかりにクラクションを鳴らした。いちばん前の車から若いおにーちゃんが降りて、こちらへ向かってくる。私はクラクションを鳴らし続けた。
熱血おにーちゃんは言う。「おじさんが危ないことをしていたから、注意していたんだ」
私は相手の目を見て応えた。「だからなんだ」
おにーちゃんの目が点になり、首を振りながら戻っていった。
あのとき私は言いたかった。正義の味方のつもりか、と。気持ち悪いんだよ、と。やってることは結局同じだと自覚しろよ。見知らぬおっさんのために傷がつくのは厭だから、みんな避けて通るんだよ。おっさんはそれが判ってる。判ってて賭けをしてる。そうじゃないというなら、つべこべキレイゴト言ってないで賭けをブチ壊せばいい。てめぇで引き受けてみろよ。言い訳して他人に認めてもらわなきゃならないようなヌルい正義なら止めちまえ。
自分の正義が万人にとっての幸せだと盲目的に信じているヤツがいちばん変。どこかで何かを踏み越え、自覚的に自分の出来ることをしていくしかないわけで、そんな世界で正義のヒーローだなんてまったくタチの悪いジョークだ。そんなコメディアンが一番オヤジくさくてカッコいいと思った。初代シルクスペクターの気持ちがよく判るわ。進んで汚れ役を引き受けていた粗暴で父性的な彼が、アメリカの20世紀のパロディだというなら、その死後に残った者はなにができるのか。
狂気とのギリギリの境目にいるロールシャッハは『信用できない語り手』のようでスリリングさに一役買っている。しかしあくまでヒステリックで大衆的な傍観者であって、だからどうしようという決め手には欠ける。二代目ナイトオウルのダニエルは、父親の残した遺産を駆使して活躍したものの、引退後はなんだか自信がなく何かを背負う覚悟もない平和なことなかれ主義者である。まるでベトナム戦争後に信じるものを失い無気力になった中流層を見るようだ。母親との軋轢に悩み頼り甲斐のある男に身を寄せる二代目シルクスペクターのローリーは娘気分が抜けていない。最終的には誰かが何とかしてくれると信じているようだ。この中では社会的にも成功を収めているエリートお坊ちゃんのオジマンディアスがもっとも実行性があるわけだが、しかし世界で一番賢い男も全知全能なわけではなく、まさしく『ウォッチメンは誰が見張るのか』というそのものの問題を惹起してしまう。『世界の警察アメリカ』は誰が見張るのかって言葉もあったっけな。ヒキコモリのDr.マンハッタンは科学技術の象徴か。科学は人を救いはしない。使うのはあくまで人だからだ。そんで結局、彼は神様になってしまったってことなのか。キリスト教圏では子どもによく『神様が見ていますよ』って言うよね。でも、神はもういない。
時代は移り状況は変化した。それで世界はどう変わっただろう。