頭を挙げて山月を望み

ゴールデンウィークには新幹線も動くようなので、少し長めに帰省しようと思う。
母校である高校にも津波の水が来たらしい。平野部だけども普段は海の気配など感じないくらい海岸線からは離れた場所だったので、よもや届くとは思っていなかった。地図に定規を当て、最寄の海水浴場からの距離を測ってみたところ、直線距離で4kmほど。歩いたら1時間かかる距離だ。
実家のあたりは地盤の固い丘陵地帯である。大地震が来ても比較的大丈夫そうだからここを買ったと常々両親が話していた。事実、前の宮城県沖地震でも、川では橋が落ちるなどの被害があっても、当時築5年の安普請の家はまあ無事で、その後も建て増しや耐震補強などしながら老朽化して建て直すまで20年ほど住み続けることができた。その同じ丘にある小学校は今度の地震で鉄筋コンクリートの建物が崩れはしないものの使用不能になったらしい。私も通った小学校なのでもちろん古くはあったが、一般的に鉄筋の耐用年数は50年といわれており、老朽化するにはまだ10年ほど残っていたはずだ。つまり、それほどの威力だったということか。
ぽつりぽつりと洩れ聞こえてくる個々の情報に、被害の程が窺い知れる。
どんな状態なのかこの目で確認したいと逸る一方で、予定が近づくにつれて見るのが怖い気持ちも頭をもたげてくる。
実家や友人とぽつぽつメールのやりとりをしていると、電気がついた水が通ったガスが復旧したという話の後に、でもまだ大変な思いをしている人がいる、自分たちだけ申し訳ないという言葉が出てくる。言わなくとも、そんなニュアンスが伝わってくるのが胸が痛い。
県内どころか、東日本の太平洋沿岸はまんべんなく津波に流された。範囲が広すぎ、なにもかも足りない状態で復興はなかなか進まないようだ。1ヶ月以上経っても水もガスも通っていない地域がある。なんだか信じがたいような空恐ろしさに呑み込まれそうになる。
ネットで記事を読んでいると、「一緒に頑張ろうと言われるのにうんざりだ。東京の人も不幸になってそれでも一緒に頑張ろうと言われたら頑張る」という話も出てくる。生活を根こそぎ流されたら、そりゃ恨み言のひとつも言いたくなる。東北の田舎のほうというのは、もともと景気が悪かったのだ。じゃあこれから頑張ってといわれても、地元経済がその通りなのでなにをどうすれば歯車が回って上向くのか期待が持てず、稼げないまま支出ばかりが出て行くことになりかねない。そのへんが首都圏や都市部とは感覚が違うのだよな。おそらく手持ちの家と資材を奪われたら、残るのは諦念と絶望ではなかろうか。
しかしそれでも、復興するのはあくまで地元の人間なのだ。そういうことではないと頭では判っていても、酒を飲むのも遊びに行くにもなにがしか罪悪感が付き纏うけども、私にできるのは微々たる力でも黙々と支え続けることだ。

でも、やるんだよ。


復興の狼煙ポスタープロジェクト 岩手県釜石市