映画:アンダーグラウンド(監督:エミール・クストリッツァ)


クストリッツァ監督の作品ではカルト的に人気のある『アンダーグラウンド』(1995年)だが、長らくソフトは絶版になっていた。だから観たい観たいと思いつつずっと叶えられなかったのだ。なんでDVDやブルーレイにならないのかというと、紛争のせいでオリジナルのネガがなくなってしまったかららしいとの噂を聞いたけども、それも凄い話だよな。しかし技術の進歩によって、この度めでたくデジタルリマスター版が上映されたのだった。
満を持して感想をと思うのだが、何をどう書いていいのか途方に暮れてしまう。それほど観た後は打ちのめされて言葉が出てこなくなる映画であった。
これでもかと詰め込まれた複雑な物事に気圧される。狂乱のジプシー音楽が心をかき乱し、メリーゴーランドのようにぐるぐる回る楽隊や車椅子が滑稽で、もののあはれをさそう。そして圧倒的な、怒りと哀切に満ちていた。この監督の後の作品には自嘲的でありながら寓話のような大きな温かさがあるが、『アンダーグラウンド』ではより鮮明に哀しさが際立っていたのだった。


ユーゴスラヴィアを舞台に、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題などを経てユーゴスラヴィア紛争までが描かれる。動乱が、まるで地面から揺さぶり落とすように人々の生活を根こそぎ変えていく。それに翻弄されたのか上手く波に乗ろうとしたのかその両方なのか。それまで通りに暮らすことは適わず否も応もなく身辺を変えていった悲喜劇が、賑やかなブラスバンドにのっかる。
パルチザンの戦士だったクロはナチスの拷問から大怪我を負いつつ辛くも逃れ、これもパルチザンである親友のマルコに地下へ匿ってもらう。そこにはクロの息子をはじめ戦火を逃れてきた人々が住み着いていた。彼らに面倒をみられながら療養しているうちに第2次世界大戦は終結するが、マルコは地下の人々にはまだ戦争は続いていると思わせたまま、世間的にはクロが死んだことにして英雄に祭り上げ、自分に都合のいいように情報操作し、政府幹部までのし上がっていく。そのままいつしか20年のときが経っていた‥‥。
始めは助けるつもりで匿っていた親友が、いつしか利用可能な便利な存在となり、あれよあれよという間に騙して軟禁し、しかも黒い資金源の労働力として囲い込むようになってしまう。そうしてまだ戦争が続いていると思い込んでいる地下の人々へおろしてやる食料が、さりげなくドッグフードの缶をあけたものだったりする。クロが惚れている女も自分のものにしてしまった。やっていることは鬼畜である。騙し続けるうちに引っ込みがつかなくなり、どんどん大掛かりになっていくものの、途中で止めようったって生計とも密着して絡み合っており、成り上がりの生活も手放せない。マルコの山師の才能と情勢がうまいこと噛み合って、行くとこまで行ってしまった感がある。
その後のアクシデントで地下室の壁に大穴が開いて出てみたら、そこにはヨーロッパ大陸を網羅する大交通網が出来ていて呆然とするというのがまた、妙なおかしみと共に欧州の奥深さを感じさせる。地下に潜ったパルチザンはクロだけではなかったと。表面的な闘争や階級制度と平行して世俗の都合に左右されない教会があって支配が二重構造になっていたり、絶えず秘密結社などが取り沙汰されるような強かで重層的な土壌であれば、地下ゲリラが地上の国境など無関係に機能しているというのも、どこかありそうで怖い。
それにしても現実というのは無残なものだ。乙女が天使のように飛ぶ夢幻の様を表現しようとすれば大掛かりな車輪のついた機械装置が必要となり、ぞろりと垂れ下がる衣やら髪の毛やらは前から風を送ってなびかせなくてはならない。しかしそれくらいでいいのだよな。もしそんな仕掛けが必要でなくなるとしたら、もはやそこはこの世ではないんだから。