ゼロ・グラビティ(監督:アルフォンソ・キュアロン)

何かと話題のゼロ・グラビティを観に行った。張り詰めた緊張が全編を覆っているが91分とコンパクトにまとまっているので飽きることはない。そしてこれだけコンパクトということは省略も多いわけで、科学的な正確さよりも雑多な情報を究極まで削ぎ落とし抽出されたナニカが優先されているのだろう。つまりこれはストレートにスローン博士の再生の物語ということになろう。
漠然とした物言いではこれくらいしか書けないわけで、この先で少し内容に触れつつ気がついたことだけちょこっと。未見の方はご注意召されたし。

一番最初のシーンで、ストーン博士はシャトルのアームに固定された姿で登場する。シャトルの外で宇宙服を着て作業しており、移動は自分で行わずアームの操作をしている船内のクルーにしてもらう。ところが事故によりアームごと宇宙空間に放り出され、その衝撃でぐるぐると大きく振り回されることになる。ようやくアームから逃れても回転のふり幅は小さくなるものの止まらない。それから人の助けを借りて安定させてもらい、一度見失った拠り所に向けて動き出すが、酸素は足りないしひとりでは動けないし、紐でグイグイ引っ張られながらの移動で他人のペースに合わさざるを得ない。この紐がまるでへその緒のようだ。
ようやく空気のある場所に辿り着いたとき、ストーン博士はひとりになっている。丸いエアロックの中で宇宙服を脱いだ手足を縮め、胎児のような姿勢になるカットは美しくも象徴的で、人は生まれてくるときと死ぬときはひとりという言葉を思い出す。
そうして産まれなおした博士は不器用ながらも自分で姿勢を制御する術を編み出し、行きたい方向へ自分で進めるようになるのだよね。
宇宙というと無限の広がりがあるように思えるが、真空で生命を維持できない人間にとっては究極に閉じた状況でもある。天文学的なマクロの光景と、電子顕微鏡で見るミクロの世界がどこか似通っているようなものか。外へ外へ飛び出していった結果、いつの間にか自分自身の内部へ深く回帰するテーマへ繋がっていくというのは、2001年宇宙の旅の絶大なる影響力に既に染まってしまっているいま、普遍的なものなのかどうか判断しかねるな。この映画の場合は衛星軌道での話なのでいつでも母なる地球が大きく見えていて、周りに何もない虚空に放り出される断絶とは違うのだけど、ある意味では余計に孤独を強く感じるのかもしれない。