- 作者: 奥泉光
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1997/02
- メディア: 文庫
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本書には表題作の他、「三つ目の鯰」も収録されている。
まず「石の来歴」。
主人公の真名瀬は、秩父で書店を営んでいる。口下手で不器用な大人しい男だが、唯一の趣味は石集め。どうして石を?と人から聞かれると、思い出すのは戦時中にレイテ島で聞いた男の声だった。
つまり君が散歩の徒然に何気なく手にとる一個の石は、およそ五十億年前、後に太陽系と呼ばれるようになった場所で、虚空に浮遊するガスが凝固してこの惑星が生まれたときからはじまったドラマの一断面であり、物質の運動を刹那の形態に閉じ込めた、いわば宇宙の歴史の凝縮物なのだ。
戦後復員し、結婚もして二児を得てからも、マラリアの後遺症で発熱する晩などに、ありありと蘇ってくる光景がある。負傷したり病を得たりして本隊から脱落した日本兵ばかりが寄り集まって、洞窟の中で死を待っているのだが、その場にいた大尉の統率力でなんとか軍規を崩さず持ちこたえていたときのこと‥‥。
淡々と硬質な手触りの文章が積み上げられ、戦地での狂気や妻との錯誤が描き出されていく。暗く翳った記憶とキラキラ輝く夏の思い出が交互に綴られ、その真ん中に石がつるつるの断面を反射させている。
読んでいると石の結晶のような美しく動かしがたい硬さを感じて、そこから逆に人の柔らかさ傷つきやすさが浮かび上がる。
で、「三つ目の鯰」。
実は私は表題作よりこちらの方に惹かれた。
父親の葬儀の場面から始まる話は、大学生であるぼくの口調で語られる。
実家の墓に入った父の面影と、親戚の人たちが語る若き日の父の思い出には微妙なずれがある。それも無理からぬこと、とこれまた淡々と時間が流れる。
山形でゆっくりと流れる時間や好立地に建つ墓の風景に重ねて、キリスト教に傾倒し挫折したおじの姿が描かれる。
私は特定の宗教を持たず、キリスト教の教義について云々することは出来ないので、感想だけを書くことにする。部外者の勝手な思い込みと思って欲しい。
作中で森中先生(カトリック系大学の教授でクリスチャンでもある)が教会で説教をする場面がある。
この驚くべき逆説、と森中先生はいい、キリスト教とはまさに、イエスの死と復活という、まともな神経ではとうてい容認し難い、ひとつの非合理を認め、信じることで、逆説的に、徹底的に合理性の立場を貫き、他の一切の非合理を打ち破る宗教であると論じた。
これを読んで私は、なるほど、とハタと膝を打ったわけですよ。
人としていかによりよく生きるか、と考えつづけると、どうしても理論の破綻というか衝突というか矛盾が出てくる。
子猫問題にしてもそうだが、人間であるということは他の生物に多大な影響を与える存在でありつづけるということだ。家猫・飼い犬に限らず、食用に養殖されている牛豚鶏他は自然のままの姿ではない。ただ食べるだけならば野性のカタチのまま、凶暴で飼いにくく肉が硬くて筋っぽい、そういう動物を飼って殺して食べればいいものを、品種を改良して大人しく食べられるためだけに生まれ育つ生命、自然ではあり得ない質の種自体を作り出している。追求するならば、そのことをどう捉えるか、という壁に行き当たる。
共存共栄とか他の動物の尊厳を守る(それも人間の尺度でしかないわけだが)という立場に立てば、人間であること自体が罪である。
どこかで非合理を乗り越えるか丸呑みしなくては、合理的な思考などできるはずもない。
キリスト教というと、私自身は今まで触れる機会にあまり恵まれてこなかったし、教養のつもりで新約聖書を一読しただけで、深い意味について考えようとしてこなかった。というか、宗教全般に対して及び腰だったし、今でもそうだ。
だから引用した一文が教義としてどういう立場のものでどんな位置付けになるのかまったく判らないのだが、とにかく私の腹にはすとんと落ちたのだ。
多分、これを読んでいる人には何のことやらよく判らないと思う。私もうまく説明は出来ないので、ぐだぐだと訳の判らない言葉を並べるだけになってしまって申し訳ない。
月山の麓で語られる、先祖伝来の墓に入るということと、キリスト教を日本人が信じるということ。合理と非合理、土着の信仰とキリスト教布教の折り合いを巡る攻防。
テーマは固いが人間の弱さや人生の変転でもってそれらは描き出される。心に染み入るやるせなさが絶品だった。
どちらもあくまで崩れない日本語と、客観的な冷静さを持ちつづける描写が美しい。
ところで私は図書館で借りたハードカバーで読んだのだけど、はまぞうには文庫版しか出てこない。まさか絶版?