地震直後の話と現状

帰省して親戚や友人に会って話を聞いてみると、やっぱりおおごとだったんだなぁとひしひしと実感したのだった。
うちにはテレビがないので、どの程度報道されているのか判らない。もしかしたら今さらな話なのかもしれない。繰言を述べるのも潔くないのかもしれないが、伝えなければ始まらないこともあると思い、書いておく。
「あのときは寒かった・・・・」としみじみ呟く友人の口ぶりには、あの幾日かの真っ暗な夜を越えてやっと春を迎え、生き延びたというある種の清々しささえあった。揺れそのものよりも、その後が大変だったと誰もが口を揃えて言う。
地震が起きて2〜3日は市街地でも周りで何が起きているのかよく判らなかったらしい。電池や手回しで聴けるラジオを持っている人はそれである程度把握できたけど、普段はなにかあればメールでやりとりするのができなかったので、直接会える距離にいる人づてに又聞きで話すことも多くなり、正確な情報が回りにくかった。現地でもデマが相当出回ったらしい。
市街地に近いところはあまり被害はなかったというし、実際に私の実家があるあたりでは多少の地割れと瓦が落ちて屋根にブルーシートがかかっている家が多いくらいで、震災から1ヶ月半も経っていたこともあってそれほど物凄い被害の痕は見られなかった。しかしそれは実家のあたりが岩盤の硬い山のほうだったからで、私が以前部屋を借りていた、そしていまも友人たちが住むあたりの市街地に近い平地の住宅地では、津波はなくとも落ちた建物の外壁や窓ガラスが散乱し、水道管から水が噴き出し、電柱が折れて切れた電線がぶらーんとぶら下がっていたのだそうな。行く前に友人たちが言っていた「たいしたことない」というのは、津波のあった地域と比べての話だったのだ。
食べるものについても、その日や次の日の分はなんとかなっても、どこの家でも充分に備蓄があったわけではない。非常食を準備していてもたいていは3日分くらいなものではなかろうか。ところが多少なりとも物流が復活するのに1週間かそこらかかった。日数が経つにつれ食料がなくなり、何時間かスーパーに並んでやっと何某かを手に入れる日々だったのだそうな。また、電気はわりと早い段階でついたが、水と都市ガスは時間がかかった。家の設備にもよるのだけど、多くは調理できないため寒いのになかなか温かいものが食べられなかったらしい。ガソリンもないので遠くへも行けない。そんな中、ミスタードーナツ吉野家では無料で商品の配布をしてくれて、非常に嬉しかったのだそうな。他にもコンビニの店長が「売り物にならないから持っていって!」と棚から落ちた食品を分けてくれたり、家族の安否が判らないにもかかわらず店を開けてくれた個人商店など、心意気のある人たちのお陰で乗り切れたという。一方で某コンビニチェーンは落ち着くまで店を開けず、賞味期限の切れた弁当や惣菜が破棄されたという噂があったり、あるジムではシャワーを10分1,000円で貸そうとしたり、この地震をきっかけに株を上げたところと暴落したところがくっきり分かれたらしい。
津波を被った地域で難を逃れ、いまは避難所生活している友人の話では、救援物資が届いたのは5日目だったらしい。4日目までは1cmくらいの秋刀魚の切り身が2〜3ヶ浮いたスープが1日に1度。その後は米が出たが、1日1食なのはしばらく続いたそうな。喰ってねぇのにヘリから物資下ろすの手伝ったと笑っていたが、1週間目に生存確認されたときには痩せて別人のように面変わりしており、肉親でも最初は見分けがつかなかったというからナントモハヤである。壮健な男性でこうなのだから、年寄りや子どもは如何ばかりか。地域によって違いはあるだろうが、彼のいたところではそうだったということだ。
ある親戚の家は建てて1年で流されてしまったという話を聞いた次の日に、友人の知り合いの家は築1ヶ月だった、いやこっちの家は1週間だったと、どんどんインフレをおこしていった。確かにここまでくると、笑い事でなくとも笑うしかない。あまねくすべてを奪う自然の前では、人間の死活問題ですらちっぽけで勝手な都合になってしまう。
津波で浸水した別の親戚の家では、近くの水産加工会社の冷凍庫の中身が流れ着いてしまい、イカやサンマがそのまま放置されて匂いがエライことになっている。こないだも箪笥の裏からサンマが出てきたと笑っていた。床下がどうなっているのか、考えたくない状況である。これほど極端じゃなくとも、海水を被った場所は独特の磯臭い匂いが染み付いている。細々と掃除をするよりいっぺん壊してきれいにして建て直すほうが順当なのだろうが、周り中が同じかそれ以上なので資材も人の手も圧倒的に足りず、それが出来ないでいる。むしろ家が建って残っているだけまだマシなのだ。そうした地域は、当然のごとくまだライフラインは全滅で、夜になると真っ暗になる。
市街地でも少し古い建物では配管が壊れて通水できず、外側に塩ビ管で仮設の配管を組んでこないだようやく各家庭に水が通り、掃除が出来るようになったと喜んでいた。そのスジの専門家ではないけども私の目から見て、これから長期的に住み続けるのは難しいだろうと思える建物でも、取り壊すのかいま住んでいる住人はどうするのか、まだなにも決まっていないようだ。
なにもかもが足りない。そろそろ2ヶ月になろうという時期だが、未だ応急処置すら順番待ちで、この先どうするかを具体的に考えられる段階ではないのだ。
私の周りのひとたちは、何故かあまり弱音を吐かない。甘え下手である。言って欲しいときでも、ぐっと抑える癖がある。友人たちは気安さからいろいろ話してくれたが手伝いは丁重に断られたし(これは他人の家の中の事なのでさもありなんだが)、両親、特に親父は訊いても答えないくらいとにかく頑固で気を回そうとすると逆ギレするので始末が悪い。見舞いに来たっつってんだろうが! と啖呵を切ってお土産を無理矢理置いてきたくらいである。私が特別信用されてないのかも知れんけどな。
海岸線ではメートル級の地盤沈下が起きていて、いままで町があった場所が満潮になると水没する、地理的には『海』になってしまっているところも多い。幹線道路が復旧し、大型店舗が営業を再開して、そろそろ支援が打ち切られようとしているが、細かい生活道路にはまだ手が回っていない。数が膨大すぎるのだ。何でも揃う大型店舗に行く道が、水没して通れないところもある。えてしてそういうところは過疎化が進んでおり、高齢者ばかりだったりするんだよな。
被災地の状況は日々変化していく。さて、私にはなにができるだろうか。