映画:君たちはどう生きるか(監督:宮崎駿)

仕方ないので観てきた。前情報が何もなく公開日が公表されたのも突然だった。熊をはじめTwitterのTLではその日のレイトショーに駆け込んだ人も多かった。私はひと晩様子を見てから、なんかもう観なきゃしょうがない気がしたのでチケットを取って行ってきたのだった。広報を全くしていないとかそのへんのことはみんな言ってるからもういいな。そういや予告編すらないんだな。

そろそろ2週目だしコアな人は観ただろうからネタバレを気にせず素直に感想を書く。

 

宮崎駿氏の少年時代の自伝的心像風景なのではないかと言われているが、そういう面もあるんだろうな。出だしが戦争中だったので、まず宮崎氏って戦中派だっけ? あーそうだな、うちの親世代なんだな、というところから始まった。細かいことは省くが家族関係もだいたいそんなイメージなんだろう。ジブリの人間関係に詳しいわけではないので登場するひとりひとりのモデルがわかるわけではないが、それぞれ当てはまる人物がいそうではある。しかしよく存じ上げないことをああだこうだ想像しても仕方ないので、宮崎氏云々は関係なく観ていこうと思う。

観ればわかることのひとつにおそらく宮崎氏は古今東西のお伽噺や児童文学に精通しているのだろう。今回もそれが遺憾なく発揮されていたように思う。少年が母の喪失と新しい母を受け入れる冒険成長物語である。初めの東京の自宅のシーンはシリアスベースというか実写ベースのような当たり前の頭身サイズで描かれる人物で構成されるが、田舎に疎開したあたりからいかにもファンタジーっぽいタッチの違う3頭身で描かれる人物が入り混じってくるのは、あの場所はあんな塔がある場所だけに既に半分あっち側だということなのか。アオサギが縁側に入ってきたのが切替ポイントだろうか。ポニョあたりから彼此の境目が薄くなってきてないか。おばあちゃんたちは誰だったんだろう。ひょっとしてご先祖様か。

それはそうとして、序盤のケンカの後に拾った石で自分の頭を傷つけるのは、他人からつけられた傷なんて実は知れていて、一番深い傷、血がドバっと出て後々まで響くような傷は自意識の問題なのだということなんだろう。それでも「誰にやられたんだ、俺が言ってやる」と怒ってくれる父親がなんかいままでになかったパターンだなと思った。その場では上手く告白できなかった眞人少年が最後に言語化できたのは観ている側としてもほっとした。
墓所はなんだったんだろうね。道を踏み外すと深みに嵌っていく危険性のようなものだろうか。被害妄想のようなもの、仏教でいうところの地獄のような、自家中毒を起こして認知の歪みを生じさせるようなもの。そういうものからは気づかれないうちに離れなければならないのだ。

ナツコさんの産屋へ侵入した際の粘着性のある式紙のようなよくわからない紙テープっぽいものは、「ナツコお母さん」と呼びかけるまでの眞人少年の羞恥心とか葛藤を表しているんだろうなぁと面白かった。そのときに「アンタなんか大嫌い」と言われたのを真に受けてガビーン!と音がしそうなほどショックを受けるが、あれはナツコさんの優しい嘘だよな。そう言わなきゃ逃げてくれないから、子供を守るために仕方なしにそう言ったんだろう。表面上の言葉に惑わされている時点で子供だということが殊更わかりやすく描かれていて、宮崎氏の過去の自身に対する諧謔なのかなんなのか。もしくは「そう言われたらどうしよう」という眞人少年の恐れだろうか。

反面、ヒミにバターとジャムをたっぷり塗ったトーストを食べさせられるシーンは幸せな思い出か。屈託なく顔中ベタベタにして頬張る様はまさしく幼児のそれである。ヒミが眞人少年の実の母で若い頃に1年間神隠しにあっていた間の久子なんだろうなというのは観ていてなんとなくわかるが、文字にするとややこしいな。

塔は内的世界そのものなんだろう。ナルニアのように子供だけが持っている世界なのかもしれないし、たまに大叔父さんのように大人になってもその世界に居続ける人もいるのかもしれない。別の見方をすれば大叔父さんは少年の心の中に居座ることで存続しているともいえるし、このへんはモチーフの意味するところがダブっている気がする。素直に考えれば塔の崩壊は空想的な少年が大人になる象徴だよね。まだ悪意を吸っていない石というのもなんだか印象的だったな。

穿った見方をすれば創作するということを維持しようとしたら他人の手が入ってシステムになり、システムは個人では完全にはコントロールできず、かといって放っておいたら崩壊してしまうので調整の手も抜けない。なんかこう不思議な力で石が浮いているようなもんなんだろう。一度は譲ろうと考えたしそれを引き受けたがる人物もいるけど、ひとりの内的世界を軸として成り立っていた特殊な世界なんて物凄く属人的なものを譲り渡すことなどできるのか。結局それはガワを覆って補強されていてもできない相談なのではないか。アニメ業界を巡る情勢や大きくなってしまったジブリブランドをどうするのかということなのかもしれないが、してみるとジブリそのものはあの屋敷の敷地全体なのではなかろうか。敷地内には他にも塔があるかもしれないし、それは離れの家かもしれないし、もしかしたら池の底から地下へ続く下りの階段があるのかもしれない。

ペリカンやインコの大群は口さがない他人の象徴だろうか。塔の中では捕まったら食べられてしまう恐怖の対象だったインコが、外に出たら小さなしかしよく囀るセキセイインコだというのは、これが自意識内で増幅される「世間」というものの正体か。けっこう辛辣だよね。

観終えて時間を置いてつらつら思い返してみると、モチーフやエピソードがてんこ盛りでずいぶん中身の濃い映画だったな。夢の中のように次々と現れては過ぎ去っていく。あれはどうなったんだろうと思っても走る車窓の景色のようにどんどん流されていくのをただ享受すればいいのだと思う。観る人によって様々な解釈が生まれる余地がある。ひと夏にパッと流行って消費されるより、息長く愛されるのがふさわしい作品なのではなかろうか。